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第7話  甘い香りの正体

Author: marimo
last update Last Updated: 2025-12-23 21:31:15

 内科へ移ったことで、楓の生活は穏やかになった。

 亮も安心したようで、デートが増え、会話も笑顔も戻った。

 だが――その均衡が揺らぎ始めたのは、亮が「新しいプロジェクト」に抜擢された少し後だった。

『今日は遅くなる。会えない』

 ハートも絵文字もない。

 ただの通知音が、楓の胸をかすかに冷やす。

 忙しいのなら仕方ない。

 そう思い込もうとしたが、胸の奥のざわつきは消えなかった。

 さらに翌週。

 亮が帰宅したとき、ふと風に乗って漂ってきた匂い――

(……誰の香り?)

 嗅いだこともない甘い香水。

楓ももっと若いころはおしゃれが好きで、香水をつけて行って病院で怒られたこともあった。それに似た香り。でも自分のではない。

 そう感じたが、楓は問いただすことができなかった。

 彼を信じたい気持ちのほうが、まだ強かったから。

 しかし、その香りの主が、二人の未来を大きく狂わせる存在になることなど、楓はまだ知らなかった。

 帝東物産本社。

 朝の光がガラス張りのエントランスを照らし、そのきらめきが眩しいほどに広がっていた。

 エスカレーターで上階へ向かう途中、佐々木亮は資料を握りしめたまま深呼吸した。

 緊張の汗が手のひらにじっとりと滲む。

 しかし胸の奥にあるのは、不安よりも「期待」と呼べる高鳴り。

 今日会うのは――

 帝東物産にとって今期最大規模となるプロジェクトの中心人物。

 大手不動産グループ、宮原ホールディングス

 そしてその会社の社長令嬢が、今回の決裁の鍵を握っているという。

(令嬢っていっても、どうせ役職だけの飾りだろ)

 そんな軽口を心の中で言いながらも、胸はざわつく。

 噂程度に“美人だ”“気難しいらしい”と聞いたことはあるが、亮はほとんど気にしていなかった。

 だが――

 ロビーに足を踏み入れた瞬間、その認識は音を立てて崩れた。

 高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を落とし、

 磨き上げられた大理石の床がその光を反射する。

 どこまでも広いロビーには重厚な静けさが漂い、まるで別の世界へ迷い込んだような錯覚を覚えた。

 そんな中で、ひとりの女性が軽やかに歩いてきた。

 白いワンピースが揺れ、柔らかな栗色の髪が光を受けてきらめく。

 微笑んだ唇は温かいのに、その奥に影のようなものを宿した瞳。

 人を惹きつける、危うい吸引力。

「佐々木亮さん、ですよね?」

 透明感のある声に名を呼ばれ、亮は思わず息を呑んだ。

 女性こそ――宮原亜里沙

(……こんな人なんだ)

 写真すら見たことがなかったが、一目で“只者ではない”と分かる存在感。

 企業令嬢という肩書きが霞むほどに、彼女の纏う空気は特別だった。

「初めまして。父に紹介されました、宮原亜里沙です」

「佐々木亮です。本日はよろしくお願いいたします」

 亮は業務モードのまま丁寧に頭を下げる。

 しかし亜里沙は、ふっと苦笑しながら一歩亮に近づいた。

「いいのに。そんな堅苦しいの。もっと自然で」

 距離が近い。

 香りが触れるほどに。

「佐々木さんって、意外と真面目なんですね」

「意外とは……?」

「見た目がもっと、女たらしっぽいと思ったから」

「そんな風に見えますか?」

「うん。……でも、そこがいいわね」

 ウィンク。

 初対面の相手に向けるには大胆すぎる仕草。

 だが、まるでそれが当然であるかのような自然さ。

 亮は胸の奥に奇妙なざわめきを覚え、

(なんなんだ、この感覚……)

 と小さく息を呑んだ。

 そんなざわめきの正体を、このとき亮はまだ知らない。

 それが、後に楓との人生を変えてしまう“最初の揺らぎ”だったということを。

marimo

「この“香り”、もう気づいていましたか? それとも、まだ信じたいですか?」

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  • 静かな幸せは、裏切りの匂いがしたー医師・渡辺楓が選んだ、愛という名の代償ー   第2話 初デート

    初デートの場所を決めたのは、亮だった。  楓が当直明けであることを知ると、彼は電話の向こうで一瞬だけ言葉を切り、何かを考えるように黙り込んだ。そして次の瞬間、まるで当然の選択肢であるかのように、穏やかな声で言った。 「重たい料理は、きっと身体に負担になりますよね」 その一言に、楓は少し驚いた。  当直明けの疲労を、こうして真正面から気にかけられた経験は、ほとんどなかったからだ。 その言葉通り、彼が予約していたのは、駅から少し離れた路地裏にある、こじんまりとしたイタリアンレストランだった。  人通りの多い通りを一本外れた場所にあり、知らなければ通り過ぎてしまいそうな控えめな佇まい。それでも、看板の文字は丁寧に磨かれ、入口の扉からは、ほのかにオリーブオイルと焼きたてのパンの香りが漂ってくる。 店内に一歩足を踏み入れると、木の香りと温かな灯りに包まれた空間が広がっていた。  昼下がりの柔らかな光が窓辺から差し込み、テーブルの上で淡く揺れている。  騒がしさとは無縁で、まるで時間が少しだけゆっくり流れているような、不思議な静けさがあった。 (……いいお店) 楓は内心そう思いながら席に着いた。  白衣を脱いだあとも、身体の奥に残っていた当直明け特有の重だるさが、店の空気に溶けていくのを、確かに感じていた。「こういうときはね、重いものより軽いもののほうがいいんですよ」 亮はそう言いながら、自然な動作で椅子を引き、メニューを開いた。  その仕草に無理はなく、まるで何度もこの店を訪れているかのような落ち着きがあった。  楓は、その様子を横目で見ながら、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じていた。 しばらくして運ばれてきたのは、湯気の立つミネストローネだった。  亮はそれを受け取ると、まるで当たり前のように、楓の前にそっと置く。 白い湯気がゆらゆらと立ちのぼり、トマトと野菜の優しい香りが、疲れ切った身体にすっと染み込んでくる。  視覚と嗅覚だけで、どこかほっとしてしまうのは、きっと空腹のせいだけではない。「医者相手に栄養管理とか……」 楓は思わず笑いながら言ったが、スプーンを持つ手には、ほんの少し照れが混じっていた。  “気にかけられている”という感覚が、想像以上に心地よく、胸の奥に残っていた緊張をゆっくりと解かせてい

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